物語のゆくえ― ヴィム・ヴェンダース特集に寄せて

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物語のゆくえ― ヴィム・ヴェンダース特集に寄せて

目次[非表示]

  1. はじめに
  2. 最後のアメリカ映画
  3. 見せられることのない物語
  4. 時代の空気感

はじめに

 ヴェンダースは、物語と向き合ってきた映画作家だと思う。今回、ザ・シネマメンバーズでお届けする4作品はいずれも、撮ることによって見つけられた物語ではなく、物語が最初にあった作品といえる。

 もちろん映画を撮影していく過程において、あるシーンの脚本がない、撮りたい絵を撮った結果ストーリーが動く、用意されていなかったシーンを撮る等々は、ごく当たり前にあるだろう。ただ、それらは、「物語をどんな風に語るか」ということなのであり、物語に影響を与えながらも、描かれることになっていた物語のなかへと戻っていく。ジャズなどの楽曲が即興の要素を含みながらも“曲”であるのと同じように。

 その“物語”とは、最近の「ちょっといい話」や「伏線が気持ちよく回収されていく話」のような、機能的で上手に仕上がっている“お話”ではない。ある人々の人生は回収されることなく放置され、解決されない問題や状態もそこかしこにあるまま、観客は受け取ることになる。そういう物語=映画だ。行き止まりの道がない地図など存在しないように、地図にはきれいな線を描く道ばかりではないように、“物語”は本来、いびつなものなのだ。

最後のアメリカ映画

 「パリ、テキサス」は、ロードムービーという文脈で紹介されることが多いかもしれないが、この作品は、アメリカ映画であり、西部劇であり、家族の物語だ。ヴェンダース自身、蓮實重彦氏とのインタビューで、「私は最後のアメリカ映画作家である。(季刊リュミエール1)」と語っているが、この作品には、まぎれもないアメリカ映画の光、イメージ、姿がある。

 それはアメリカの原風景を作品に描き続けてきたサム・シェパードの脚本によるところが大きい。主人公トラヴィスの独白のなかに、この映画を象徴する一節がある。
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その時初めて遠くへ行きたいと思った
誰も自分を知らぬ深く広い所
言葉もない所 
通りの名もない 
町の名もない所に
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荒涼とした地に自己すら消失していくイメージ。
今の時代にはそぐわない人間であり、自分が幸福に生きられないことを予感している。そういった孤独とそれを受け入れながらも、失われた家族を再生し、去っていく男の物語。
 自分が決めたルールによって行動し、人を幸せにする。しかしそのルール=正しさを続けていくと、全ての人にはその正しさは共感されない、共有できない。決して完全ではない、いびつな、しかし甘えのない正しさ=「アメリカなるもの」がこの映画の本質として深く織り込まれている。

 2020年代となった現在の倫理観[のようなもの]からすれば、あの夫妻はあのままでいいのか?その愛のかたちを幸せというのだろうか?などという声があるのかもしれない。この映画のなかにある美学が現代社会とは少しマッチしなくなっている部分があることは否めないことを考えると、そういった意味でも最後のアメリカ映画といえるのではないか。

 ロードムービーのように彷徨うことはなく、どちらかというと直線的に移動し、物語も結末へと向かっていく。回収されることなく行き止まりを迎えるストーリーをもはらみながら、最後、胸に湧き上がってくる感情は、きれいで優秀な物語では味わえないものだろう。

見せられることのない物語

 「パリ、テキサス」では、なぜ、どうやっての重要な部分が主人公によって語られながらも、それはスクリーンには映らないという物語があった。そして、「ベルリン・天使の詩」「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」では、街に住む人々の声が映し出される。

 アニエス・ヴァルダの「ダゲール街の人々」を観るとき、映っている市井の人々の向こう側に、ストーリーがあるような感覚があったが、「ベルリン・天使の詩」では、天使によってそこに生きる様々な人々の声が、溶け合うことなく掬い上げられることによって、ベルリンという都市自体が描かれる。まなざしと耳を傾けるということが同じだけの力をもって、それぞれの人のストーリーをイメージさせる。そして、そのひとつひとつの物語はスクリーンには映らないのだ。
 スクリーンに見えているものは、人々の声、耳を傾けている天使、そしてボーイミーツガールの物語だ。男女が出会い、恋に落ちるという古典的な物語を、天使という、見ようによっては小器用なギミックのように見えなくもないモチーフと、白黒・カラーの転換という手法によって描いていることで、この作品は不幸にも映画批評において冷遇されることがあったようだが、今、観るにあたっては、多声的なモノローグの世界のなかで語られる愛の物語、そしてそれを描くことで浮かび上がるベルリンという都市、そうした“物語”を味わってみてはどうか。そして、そのあとで機会があれば、日本にも田村隆一という天使の表現者がいたことを思い出してもいいかもしれない。

時代の空気感

 そして物語は肥大し、「夢の涯てまでも」という巨大な作品となる。1977年に着想されてから完成まで10年以上かかり、紆余曲折を経て当初8時間あったとされる本作は、公開時にはその大部分をそぎ落とし、2時間半程度にまでカットされたもので、ヴェンダースの世紀の失敗作とされてきた。その一方で本作を傑作と評価する声も多い。今回お届けするのは、5時間近い尺のディレクターズカット版だ。日本において初配信となる、ヴェンダースが届けたかった形に最も近いこのバージョンで、あなたの目で確かめてほしい。
 本作は、英題がUntil the end of the worldで、当時この作品同様にバンドとして肥大化していたU2が書き下ろした同名曲がエンドロールで流れる。前掲した「パリ、テキサス」での、自己すら消失していく荒野をまるで目指したかのように、U2もまた、アメリカ南西部に赴き、その旅のイメージをアルバム『The Joshua Tree』において、「Where the street have no name」、「I still haven’t found what I’m looking for」という楽曲に色濃く反映した。このアルバムは、「ベルリン・天使の詩」公開と同じ1987年にリリースされているのだが、まさに「パリ、テキサス」(1984年)から影響を受けて制作されたとみるのは飛躍が過ぎるだろうか。「パリ、テキサス」を観た後、U2のアルバム『The Joshua Tree』を是非、歌詞を眺めながら聴いてほしい。

 そして、U2はヴェンダースから依頼され、「夢の涯てまでも」「時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!」と2作連続で映画に楽曲を提供するのだが、1991年(に至る数年)という時代の空気がそうさせているのか、特に「夢の涯てまでも」とU2のアルバム『Achtung Baby』は、完全に呼応したイメージをもっていると思う。エンドロールでかかる「Until the end of the world」はアルバムに収録されているバージョンとは違うので、聴きどころだ。
 「夢の涯てまでも」は、世界中を旅する壮大な追いかけっことともに、ここでも家族の物語が描かれる。そして膨れ上がったストーリーのなかでは、現在の我々を予見したかのように、小型ガジェットを手にして映像を見ることに人々が没頭する姿が映し出され、映像を見ることに憑りつかれた人間は、やがて言葉に救われる。ヴェンダースが向き合ってきた“物語”のゆくえの終着点をここに見て取るのはさすがに短絡的かもしれない。しかし、それでもこの4作品を観ていくテーマの一つとして、“物語”とは何か?という問いは今もなお有効なのだと思う。


「パリ、テキサス」
© 1984 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH
ARGOS FILMS S.A. and CHRIS SIEVERNICH
PRO-JECT FILMPRODUKTION IM FILMVERLAG DER AUTOREN GMBH & CO. KG

「ベルリン・天使の詩」
© 1987 REVERSE ANGLE LIBRARY GMBH and ARGOS FILMS S.A.

「夢の涯てまでも」
© 1994 ROAD MOVIES GMBH – ARGOS FILMS
© 2015 WIM WENDERS STIFTUNG  – ARGOS FILMS

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