青野賢一 連載:パサージュ #7 窓辺に佇む女たち──シャンタル・アケルマンの世界(後編)

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青野賢一 連載:パサージュ #7 窓辺に佇む女たち──シャンタル・アケルマンの世界(後編)

目次[非表示]

  1. すべてを知っておかなければ気が済まない男
  2. さりげなく存在する「隔てるもの」
  3. 利他的で思いやりにあふれるアリアーヌ
  4. ジョゼフ・コンラッドの小説を映画化
  5. 娘が唯一の生きがいの男、オルメイヤー
  6. ニナの真の意味での出発の瞬間
  7. 「窓」の意味、抑圧された女性という題材
 前篇に記したように、『アンナの出会い』(1978)以降、1980年代にはそれまでとは趣を異にするコメディ作品なども手がけたシャンタル・アケルマン。2022年4月下旬より各地の劇場で開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」の公式サイトに掲載の小柳帝のテキストによれば「その結果、フィックスによる長回しにあれほどこだわっていたアケルマンが、徐々にカットを割るようになり、それまで全く見られなかった切り返しのショットを使うなど、映画の話法を増やしていった」(「『部屋』から世界へ 移動し続けた映画作家シャンタル・アケルマン」)。そうして取り組んだのが『囚われの女』(2000)である。原作はマルセル・プルーストの大著『失われた時を求めて』。この第5篇と第6篇を現代劇に翻案し約2時間の作品に仕上げたのがアケルマンの『囚われの女』だ。

すべてを知っておかなければ気が済まない男

 暗い波が打ち寄せる夜の海を映し出したタイトル・バックに続いて現れるのは、日中に海で戯れる若い女性たちの姿。いかにもホーム・ムービーといった面持ちの映像だ。しばらくそれに見入っていると、映写機を操作しながら「僕は あなたが…」と呟く身なりの整った男性が画面に登場する。この男性はシモン(スタニスラス・メラール)。本作の主人公のひとりである。彼が映写機をどのように操作しているかといえば、同じ場面を繰り返し再生しており、その繰り返される場面にはふたりの女性が映っている。そしてその映像を見ながらシモンはまた呟く。「あなたが大好きだ」。「あなた」とはふたりのうちのひとり、アリアーヌ(シルヴィ・テスチュー)のことである。
 続くシークエンスは外出しているアリアーヌをシモンが尾行するというもの。このふたりの関係はというと、恋人同士であり、祖母と暮らしているシモンの家──メイドもいる豪邸である──にアリアーヌも一緒に暮らしている。ならばなぜ尾行など? というのは普通の人の発想。シモンはアリアーヌのことをすべて知っておきたいというヤバイ奴なのである。それなので、アリアーヌの友達のアンドレ(オリヴィエ・ボナミ)にもアリアーヌの行動を根掘り葉掘り訊く。「アンドレ 君を信じてるよ」などといいつつ、アンドレが語ることにことごとく反論したり疑問を投げかけたりするのだ。

「囚われの女」
© Corbis Sygma - Marthe Lemelle

さりげなく存在する「隔てるもの」

 あるとき。家のバスルームでシモンが入浴している。シモンが浸かっているバスタブの片側にはすりガラスがはまった壁が立ち上がっており、その奥にもうひとつバスタブがあって、そちらではアリアーヌが入浴中だ。「全部洗うんだ 腕 脚 柔らかい体毛も くまなくだよ」とシモンはすりガラスの向こうのアリアーヌにいう。それに対しアリアーヌは何の衒いもなく「洗ってるわ 嫌なにおいがしないように」と返すと、シモンは「嫌なもんか 逆だよ」と、思わずどっちなんだとツッコミを入れたくなる返事をする。ここで興味深いのは、シモンとアリアーヌを隔てるすりガラスのはまった壁。彼らは寝室もそれぞれ別個で、性交渉に至ってはいつしか寝入ってしまったアリアーヌの背後から自らの陽物をヒップだか腰だかに擦りつけ勝手に果てるという始末。ちなみにこのとき両者とも寝間着を着ている。かようにふたりのあいだには何らかの物理的隔たりが存在することが多いのだ。しかしながら、そうした「隔てるもの」は乗り越えなければならない障壁というよりは、ごく自然にそこにあるという印象で取り立てて問題視されることはない(ということが問題なのを、傍観者たる我々は気がつくのだが)。
 整理すると、シモンとアリアーヌは恋人関係で同居しているが、シモンはアリアーヌのことを好きすぎるのと臆病なのも相まって、彼女が何を考え、どう行動しているのかが気になって仕方がない。一方のアリアーヌは極めて自然体で生きているのと同時に、シモンを大切に思い愛している。つまりシモンが一人相撲をとり勝手に妄想を巡らせて、アリアーヌの言葉尻をつかまえ質問攻めにするというのがこのふたりの状況である。そしてシモンはアリアーヌが実は女性好きなのではないかと考えるようになるのだった──。

利他的で思いやりにあふれるアリアーヌ

 女性同士の恋愛やそれにともなう性愛関係は『私、あなた、彼、彼女』や『アンナの出会い』にも見られるモチーフだが、前記の2作が具体的、直接的にそれを描いている一方、本作ではシモンが抱いた疑惑というかたちで表現されている。シモンは女性同士のカップルに会い、いろいろと質問を投げかけ、カップルがそれに答える。曰く「体だけの問題じゃないわ そう単純じゃない」「もっと信頼できるの 敵対もしない」。彼女たちがこう答えることで、内面的な部分がよりクローズアップされるのである(蛇足だがアケルマン自身はバイセクシャルである)。
 女性カップルらへの取材を経ていよいよアリアーヌ同性愛説に染まってしまったシモンは、翌日の早朝に失意のなかアリアーヌに別れようと持ちかける。「これ以上はムダだよ」「君は退屈している 無理してここにいるべきじゃない」「今すぐ別れたほうがいい」。寝起きのアリアーヌは一瞬戸惑いの表情を見せるが「今すぐがいいの?」と問いかける。「ああ お互いのためだ」「僕らは幸せだったが この先は不幸しかない」というシモンに「そう思うのはあなただけ」と返すアリアーヌの顔つきはこれまで見たことがない険しさと悲しみが入り混じったものである。そんなやりとりののち、ふたりは別れることになるのだが、シモンは自分から切り出しておいて「別れるのはつらい」という。それを聞いたアリアーヌは真っ直ぐシモンを見つめてこういった。「私はもっとよ」。
 物語はこのあともうしばらく続くのだが、後半になるにつれて、一見自由奔放なアリアーヌが実はとても利他的で思いやりにあふれた人物だということが際立ってくる。それだけにラストシーンはとてつもなく重い。

「囚われの女」
© Corbis Sygma - Marthe Lemelle

ジョゼフ・コンラッドの小説を映画化

 1970年代までのアケルマン作品と比べると、一般的な映画の撮影手法により近づいたといえる『囚われの女』から10年ほど経過した2011年の作品が『オルメイヤーの阿房宮』。『囚われの女』同様、原作ものである。イギリスの作家、ジョゼフ・コンラッドの同名小説(1895年出版)をもとに、アケルマンが脚本を手がけた。我々にはあまり馴染みのない「阿房宮」とは、秦の始皇帝が建てた大宮殿のこと。東西約800メートル、南北約150メートルという大きさで、その前殿には1万人が座ることができたという。始皇帝の存命中には完成せず、工事は二世皇帝の代に引き継がれたが秦を滅ぼした項羽がこれを焼き払い、なくなってしまった。
 夜と思しき黒い水面に光が映るタイトル・バックに続いて現れるのは、ピンクの照明にブルーの電飾が点滅する建物。キャバレーともビア・ホールともつかないその建物の入口あたりには人がたむろし、奥の方から歌声が聞こえてくる。どうやらステージがあって、そこで男性歌手と女性ダンサーがショーを演っているようである。このステージに向かうひとりの男。いつのまにかステージに上がって、歌っていた男の心臓あたりをナイフでずぶりと刺した。歌手が刺されたあとも歌が聞こえてくることから、このステージが口パクだったことがわかるが、それはさておき、バックにいた女性ダンサーたちはその光景を見てステージから我先にと逃げ出す。だが、無音となったステージでひとりだけ踊り続ける女性がいた。「ニナ デインは死んだ」という誰かの声を聞いたこの女性は踊ることをやめ、独唱を始める。彼女がこの物語の主人公のひとり、ニナ(オーロラ・マリオン)である。そして画面はふたたびタイトル・バックと同じ暗い水面へと切り替わる。「昔 別の場所で」という字幕が入るので、先の出来事より時間的に前の話──つまりデインが刺されるこの場面は時系列的には最後ということになる──がここからスタートすることがわかる。

娘が唯一の生きがいの男、オルメイヤー

 東南アジア奥地の緑色に濁った川──先ほどの水面はこの川だ──の横に建っている小屋には白人男性がひとりいる。彼こそがオルメイヤー(スタニスラス・メラール)だ。オルメイヤーがどうしてこの地にいるかといえば、同じく白人男性であるリンガード船長(マルク・バルべ)にここで商売をすれば金持ちになれるぞ、ひょっとしたら金鉱も見つかるかもしれないとそそのかされ、連れられてきたからだ。船長が養女にしたマレー人女性と結婚し一女をもうけたオルメイヤーだったが商売はまったくで金鉱も一向に見つかる気配がない。彼の生きがいはもはや娘のニナだけである。あるとき、リンガード船長が船でオルメイヤーのもとへやってきて、ニナを寄宿学校へ入れると告げる。「教育を受けさせろ 白人の教育を」。愛する娘と引き離されることを嫌がるオルメイヤーだったが、卒業したニナと一緒にパリでもロンドンでもヨーロッパに行けという船長の言葉に負けて、ニナを一時的に手放し寄宿学校へ入れる決断をした。
 ニナがいなくなってからというもの、オルメイヤーは暗く沈んだ毎日を送るほかなかった。ニナへの手紙を書いたが投函せず、会いたいと思っても自重した。娘は勉強しに行っているのだ、邪魔になってはいけないと。その間、ニナはスラリとした長身に成長していたが、船長が病で亡くなり学費滞納で寄宿学校を退学させられてしまう。せいせいしたといわんばかりの顔つきで学校の門を出たニナは、まとめていた髪の毛を下ろし、煙草の煙を深々と吸い込んだ。あてもなく街を歩き回るニナはリンガードの代わりに船の舵を取るフォード船長と埠頭で偶然出会う。この、街を徘徊するシーンの水平移動ショットと、フォード船長に寄宿学校での様子──すべて監視されていたこと、言葉のアクセントや歩き方を徹底的にただされたこと、野生児だといわれたこと、従順でありながら誇りを持たねばならないこと、月経が来たら隠さねばならないこと、など──を延々と語る長回しショットは、これぞアケルマンという印象だ。

「オルメイヤーの阿房宮」
© Chantal Akerman Foundation

ニナの真の意味での出発の瞬間

 フォード船長の船でニナはオルメイヤー家へと帰還するが、オルメイヤーとは目も合わせない。オルメイヤーはなぜ突然に娘が帰ってきたのかがわからない。つらいことがあったんじゃないか、寄宿学校が悪かったのではないか、などと推測するところや、それでも教育を与えることが父の務めだと考えてしまうところなどは『囚われの女』のシモンのようである。この感動的とはお世辞にもいえない帰宅劇のあと、オルメイヤーとニナはそれぞれデインという青年と出会う。彼は反乱軍に属しており、ほかの土地からやってきているのだが、この人物がオルメイヤー家に大きな影響を与えることとなるのであった。
 ところで、本作の冒頭もしくは本稿の『オルメイヤーの阿房宮』についての記述の初めのあたりを思い出してもらうと、「ニナ デインは死んだ」というセリフが示すとおり、最終的にデインは刺されて死んでしまう。本作を最後まで観てもらうと、このデインの死は、それまで死んだような人生を送っていたニナの真の意味での出発、再生の瞬間だということがお分かりいただけるのではないかと思う。その意味でこの作品は女性の自立、束縛からの解放という側面でも捉えることができるのである。

「窓」の意味、抑圧された女性という題材

 前後篇にわたりアケルマンの4作品について記してきたわけだが、本稿のタイトルの「窓辺に佇む女たち」という観点から少しだけ述べておくと、窓とは外と内を隔てるものであり、また出入り可能な存在でもある。また、室内から外の世界を覗く外界との接点であると同時に、外が暗く室内が明るければ自らを映し出す鏡のようにもなる。4作品の女たちはそれぞれの意味合いを含んだような様子で窓辺に佇んでいるので、注意してご覧いただければと思う。また、詳しく触れる余地がなかったが、どの作品も「歌」が大きな意味を持っていることも付け加えておきたい。主人公の女性が口ずさむ歌に、ぜひ耳を傾けていただきたい。
 いずれの作品においても、主人公たる女性たちは、経済的な窮地(『私、あなた、彼、彼女』)、古い女性像(『アンナの出会い』)、過剰な愛情や過干渉(『囚われの女』『オルメイヤーの阿房宮』)、家父長制や植民地主義および人種差別(『オルメイヤーの阿房宮』といった抑圧のもとで生きている。こうした題材は現代においてもアクチュアルな問題であり、だからこそアケルマンの作品は繰り返し観られるだけの意味があるのではと思う。こうして配信で好きなときに鑑賞できるようになったのは実に喜ばしいことだ。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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