青野賢一 連載:パサージュ #7 窓辺に佇む女たち──シャンタル・アケルマンの世界(前篇)

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青野賢一 連載:パサージュ #7 窓辺に佇む女たち──シャンタル・アケルマンの世界(前篇)

目次[非表示]

  1. 『気狂いピエロ』の衝撃から映画の世界へ
  2. 独自のスタイルを確立した70年代
  3. 寝ているか手紙を書いている「私」
  4. 自分の意志で窓から出てゆく「私」
  5. 饒舌に自らを語る人、聞くばかりのアンナ
  6. 母との再会、語りはじめるアンナ
  7. 戦争の足跡と女性の在り方への問いかけ
 本稿のタイトルにある「窓辺に佇む女たち」とは、今回取り上げるシャンタル・アケルマンの4作品––––『私、あなた、彼、彼女』(1974)、『アンナの出会い』(1978)、『囚われの女』(2000)、『オルメイヤーの阿房宮』(2011)––––のいずれにも見られるシーンから採ったものだ。各作品については順を追って述べてゆくとして、まずはシャンタル・アケルマンの簡単な経歴を記してゆこう。

『気狂いピエロ』の衝撃から映画の世界へ

 1950年、ポーランド系ユダヤ人の両親のもとでベルギー・ブリュッセルに生まれる。ちなみに母方の祖父母はポーランドの強制収容所で亡くなっており、アケルマンの母は辛くも生き延びることができた。15歳のとき、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)を観た影響で映画の道に進もうと決意。その熱量をもって撮った短篇『街をぶっ飛ばせ』(1968)が初めての作品である。13分ほどの『街をぶっ飛ばせ』はアケルマン自ら演じる若い女性が花束を手にアパルトマンに帰宅して、キッチンでパスタを作り、食べ、飼い猫をバルコニーから外に逃し、洗剤を床にぶちまけて拭き掃除をしたのち、ガス栓を開けて火をつけ部屋ごと爆発させるというもの。爆発はいうまでもなく、ガスが漏れないようにドアの目止めをするテープや、身体に何かを塗るという動作(シューワックスを靴だけでなくふくらはぎあたりまでシューブラシで塗り込んでいる)も『気狂いピエロ』インスパイアといえるだろう。またこれまでもたびたび言及されてきているが、「キッチン」「部屋」「ひとり」といったのちのアケルマン作品において重要なモチーフがすでにこの作品で提示されていることも記しておきたい。

シャンタル・アケルマン本人
© Chantal Akerman Foundation

独自のスタイルを確立した70年代

 実は『気狂いピエロ』体験のあと、映画作りを学ぼうと高校を中退して「INSAS(国立舞台芸術・放送技術高等学院)」に入学したアケルマンだったが、4か月ほどで辞めてしまっており、映画製作についてはほぼ独学だ。やがて、ジョナス・メカスらのアメリカの実験映画に興味を持ったアケルマンは1971年にニューヨークへ渡り、初長篇作『ホテル・モンタレー』、『部屋』(ともに1972)を発表。1974年、ベルギーに戻り、『私、あなた、彼、彼女』を撮影する。翌年製作した、デルフィーヌ・セイリグ扮する主婦ジャンヌの繰り返される日常とその崩壊をじっくりと描いた3時間超の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』は、革新的な作品として高く評価されアケルマンの名前を世界に知らしめることとなった。
 1980年代にはコメディ作品なども手がけるようになり作風を広げたアケルマンだったが、2000年にはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の第5篇、第6篇(「囚われの女」1、2)を現代劇として映画化。また2011年には『地獄の黙示録』(1979)の原作『闇の奥』の作者、ジョゼフ・コンラッドの同名小説を原作とした『オルメイヤーの阿房宮』を発表するなど、文芸映画の分野でも優れた作品を遺し、2015年、自身の母との対話を軸にしたドキュメンタリー『No Home Movie』を完成させたのち、パリで亡くなった。この作品の編集中に母が他界した少しあとのことである。

寝ているか手紙を書いている「私」

 先に述べたとおり『私、あなた、彼、彼女』はアケルマンがニューヨークからベルギーに戻って製作された作品。モノクロ作品で主人公の「私」をアケルマンが演じているのは『街をぶっ飛ばせ』と同様だが、本作は「私」のほかに「彼」「彼女」そして「あなた」が物語に登場する。おそらく集合住宅の一階にある小さな白い部屋にはやはり小さなベッドとドレッサー、そして椅子。「私」はその椅子に腰掛けている。家具の色を塗り替えたかと思えば、せっかく塗ったそれらを廊下に出して、最終的に部屋はベッドのマットレスだけが置かれている状態に。そんな空っぽの部屋で「私」は寝ているか「気持ちを説明する手紙」をしたためる毎日である。食事は紙袋に入った砂糖をスプーンで口に運ぶだけ。やがて「私」は服を脱ぎ、裸で過ごすようになるが、寝転んでは手紙を書く、そんな日々を続けながら「すべてが過ぎ去るか 何か起こるのを待った」。

「私、あなた、彼、彼女」
© Chantal Akerman Foundation

自分の意志で窓から出てゆく「私」

  「私」の毎日は自室で完結しているが、ときおり部屋の外を意識することがある。誰かの足音、降りやまない雪、通行人の視線──。ついに砂糖は底をつき、「私」は何かを確認するように自分の裸体を夜の窓に映したあと、服を着ておもむろに窓から外へと出かけていった。外の世界には当然ながら自分以外の何かが存在するわけだが、車が多数行き来する道路の脇に立ってヒッチハイクしようとする「私」の姿は、部屋にひとりでいるときよりも孤独が際立っている。あたかも外の世界の人には「私」が見えていないかのようである。そうこうするうち、トラックを止めてそれに乗り込むことができた「私」。運転手の男(「彼」)は無口で、取り立てて会話もないまま道すがらの食堂で一緒に食事を摂り、また走り出す。少しずつ「彼」は話をするようになるが「私」はそれを聞くばかりで喋っている気配がない。やがて「彼」と別れた「私」はあるアパルトマンを訪ねる。入口で「私よ」といって通じる間柄のその訪問先に暮らすのは、どうやら以前付き合っていた女性(「彼女」)のようだ。「彼女」は「長居しないで」といいながらも「私」を抱きしめ、ごく簡単な食事を作ってあげる。そののちベッドで身体を重ねるふたりの姿を、アケルマンはたっぷり時間をかけて執拗に描き出すのだが、朝になって「私」は服を手に持ってあっさりと「彼女」が寝ているあいだに部屋を出ていってしまうのだった。
 本作での「私」は窓から自分の意志でそれまで没交渉であった外の世界へと出向く。この点は『街をぶっ飛ばせ』の主人公が部屋と自分を爆発させて街をもぶっ飛ばそうとするのとは大きく異なるといえよう。こうした部屋(家)のなかの日常と部屋の外の世界での他者との関わり合いから生じる非日常とが織りなす感情の変化/非変化は、このあとの彼女の作品にも引き継がれてゆくのである。

饒舌に自らを語る人、聞くばかりのアンナ

 大作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』の3年後、1978年の作品が『アンナの出会い』。映画監督のアンナ(オーロール・クレマン)は最新作のプロモーションのために単身でヨーロッパ各地をまわっている。まずはドイツ。劇場で出会った男と夜の街を歩き、滞在しているホテルの部屋にその男をともなって戻ってきた。ベッドに入ってさぁこれからというときに、アンナは男にこういった。「服を着て」。男は帰り際にアンナに連絡先を渡し、明日が娘の誕生日だから会ってほしいと告げ、アンナはそれを承諾。翌日の昼に彼と娘、そして彼の母が住む家を訪ねた。家に入る前、男は身の上話を長々と語る。家が戦火を逃れたこと、妻がトルコ人と駆け落ちしていなくなったこと、妻がまだいた頃の生活──アンナは区切りのいいところまで黙って聞いたあと「そう」とそっけなく呟いた。男の家族と彼の家で食事をしたあとも、特に何の進展もなくアンナは去ってゆくのだった。
 アンナがホテルに荷物を取りに戻ると、不在中に母から電話があり「ブリュッセルで待っている」と伝言が残されていた。それを受けてアンナはブリュッセルへ。直行の列車がないので、ケルン経由だ。乗り換え駅でイタリアへ電話をかけるアンナ。実はホテルの部屋からも同じ相手にかけているが、イタリア方面は回線が混み合っているとかでなかなかつながらない。ここでもやはり不通だ。その後、次に乗る列車のホームへの階段を上っていると、中年女性に声をかけられた。イーダという名のこの女性は、アンナの幼馴染で一時は交際相手でもあったダニエルの母親。ベルギーを離れて今はドイツに居住しているという。「ドイツ語の生活は楽よ ベルギーに25年住んでも フランス語には慣れなかった ドイツは本当に快適だわ」と語るイーダ。「過去は忘れなきゃね」。列車が来るまでホームのベンチに腰掛けて対話をするふたり。先の行きずりの男ほどではないにせよ、ここでもアンナはほとんど喋らず聞き手である。ここでのふたりの対話で興味深いのは、アンナとイーダの「女性」の在り方に対する考え方の違いだ。イーダはこう語る。「女が──子を産まず親を失えば 何も残らないわ」「女が生涯孤独なのは悲惨よ」。アンナは独身で映画監督という仕事に邁進しており、イーダから見るとそれは幸せそうに思えるものの、そんな現在の風潮を「ひどい時代」と嘆くのである。やがて入線してきた列車に乗り込むアンナ。別れ際、「何があっても心配無用よ 大丈夫だから」とイーダに告げた。

「アンナの出会い」
© Chantal Akerman Foundation

母との再会、語りはじめるアンナ

 ブリュッセル行きの列車のなかで、アンナはパリへと向かう男と話す機会を得た。男はベルリン出身でハンブルクに移り住み、その後ブラジルやボリビアなど南米を訪れ、今は6カ国目となるフランスに自由を求めて行くのだという。適度な距離感とそれぞれ向かう先が決まっている限定的な時間だからだろうか、ここでの会話はそれまで交わしたものとは異なり、アンナもそれなりに話している。ブリュッセル南駅で下車したアンナは母と対面。抱擁し、手を取り合ってカフェに入る。母が「母の目に似てる」と呟いたのを聞いたアンナは「母さんに似たい」と返す。大切な人はいないのかとも聞かれたが、アンナがそれに返答することはなかった。家には帰らずホテルに宿泊することにしたふたりはカフェを出て部屋へ。ひとつのベッドに横並びで寝転ぶと母は「あなたの話をして」とアンナに促す。これまでの何度かの対話シーンで自らを語ることのなかったアンナが、初めて自分のことを話す重要な場面だ。旅先のホテルでは基本的にひとりだが、たまに人を連れてくることもあるというアンナ。しかしそれは虚しいだけだと洩らす。そしてたびたび電話を試みているイタリアには関係を持った「女友達」が住んでいることが明かされる。アンナは母に尋ねる。「女性を愛したことは?」母は「さあね 考えたこともない」と答えた。
 母との時間で自分を明かしたアンナ。少しはスッキリとしてもよさそうなものだが、パリへと帰る列車の座席での彼女の表情は決して晴れやかなものではない。しかし、パリに戻って愛人男性と過ごすとき、心なしかアンナの表情は和らいでいるようにも思える(彼女は請われて歌まで唄うのだ)。旅から今のところのホームであるパリに帰ってきた安堵からか、ほかの理由があるのかはわからないが、その複雑さこそが人生というものではないだろうか。悲しみのなかにも喜びがあり、賑わいのなかにも孤独がある、そういうことである。

戦争の足跡と女性の在り方への問いかけ

 本作で興味深いのは、随所に戦争の痕跡を見いだせるところ。その意味では直接的な戦争の場面のない戦争映画ともいえる。また、女性の在り方を問いかけるという点にも注目したい。そんなこの作品にもっとも特徴的なのは、沈黙の時間を余すところなく収めていることだろう。これは『私、あなた、彼、彼女』で「彼」「彼女」の言葉のほかに画面外の語り(「私」によるナレーション)があるのとは対照的である。本作中の何ということはないやりとりのなかの沈黙が醸し出す緊張感は、一見、物語を停滞させるように思われるが、実はそうした沈黙による緊張感が観る者をアンナの心情に引き寄せ、同時に物語を推進する力になっているようである。パリに戻って愛人男性と会話を交わしたアンナだったが、ひとり自分の部屋に帰ってきてふたたび沈黙の時間を過ごす。そうしてベッドに横たわり留守番電話を再生するアンナは、このとき何を思っていたのだろうか。

(後篇に続く)

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青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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