青野賢一 連載:パサージュ #16 あるフェティシストの告白──『髪結いの亭主』

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青野賢一 連載:パサージュ #16 あるフェティシストの告白──『髪結いの亭主』

目次[非表示]

  1. フェティシズムに開眼する契機
  2. 理想的な女性と出会うアントワーヌ
  3. いつしか広がる不安の影
  4. 余韻を残すラストシーンについて改めて考える
 パトリス・ルコントの『髪結いの亭主』(1990)は、日本初公開のときに劇場で観た。渋谷「ル・シネマ」だ。調べてみると1991年12月から公開されており、わたしが観たのはおそらく1992年に入ってから。「かほりたつ、官能」というなんとも奥ゆかしさのある日本公開時のキャッチコピーに惹かれたのか、はたまた誰かに誘われて行ったのだったかはもはや定かでないが、当時21、2歳だったわたしは切なさとユーモアのある作品だなと思った記憶がある。静かな余韻を残すラストシーンも印象的だった。今回、本稿を記すにあたり久しぶりに観直したわけだが、前述の感想に加えて新たに気づいた興味深い点もいくつかあったので、そのあたりを中心に論を進めていければと思う。

フェティシズムに開眼する契機

 映画はレコードに針を落とすところから始まる。曲はイラクの港湾都市バスラ出身のシンガー、Rababの「Saffak Alik」(邦題「私の心は愛で熱く熱くなりました」)。ノルマンディーの海辺のデッキでこれに合わせて少年が踊る。この少年は本作の主人公、アントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)の12歳頃の姿だ。海、アントワーヌ少年というと、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)を思い出す方も多いだろうが、こちらのアントワーヌはジャン=ピエール・レオーが演じたアントワーヌほど「不良」ではなく、むしろいい子のようである。しかし、彼の心のなかにはある嗜好が芽生えつつあった。それはシェフェール夫人が営む理髪店で髪の毛を切ってもらうこと。理髪店の匂いに加え、シェフェール夫人の体臭に酔いしれながら髪を切ってもらうのは、アントワーヌ少年にとって至福のときだったのだ。それなので大して伸びてもいないのに「ママが短い髪を好きなんだ」などといっては頻繁に散髪にゆく。シャンプーのときに頬に触れるシェフェール夫人の胸を感じつつ「私は体臭を嗅ぎながら空想にふけるのだ」。
 1947年6月の暑い日、いつものようにアントワーヌが散髪してもらっていると、シェフェール夫人の白衣の胸元からたわわな乳房が覗いた。それを見たアントワーヌはすっかり夢見心地に。帰宅してからもすべてがうわの空のアントワーヌだったが、食事の最中に父親から将来何になりたいかを尋ねられ、思わず「女の床屋さんと結婚する」と口走ってしまう。それを聞いた父は急に真顔になり、アントワーヌの頬にビンタ一発(このあたりも『大人は判ってくれない』オマージュのようだ)。アントワーヌは無言で自室に向かうのだった。部屋に閉じこもったのを心配して両親がアントワーヌの部屋へ。父親から謝罪の言葉とともに『将来なりたいものになっていいよ」と許可を得たアントワーヌはひとり天井を見つめて微笑む。「やったぞ 髪結いの亭主になれる」。
 映画の題名にもなっている「髪結いの亭主」とは、妻に働かせて何もしない夫のことを指す言葉。ようはヒモのような暮らしということで、父親が怒るのもまぁ無理はないだろう。ところがアントワーヌにしてみれば「髪結いの亭主」とは比喩でもなんでもなく、文字通りの意味。よってなぜ頬を打たれたのかはよく理解できないのだが、ともあれ自身の夢に一歩近づくことができたわけである。そんなアントワーヌがあるときシェフェール夫人の店にゆくと、店内で倒れたまま動かない夫人を発見する。夫人は鎮痛剤のオーバードーズで亡くなってしまっていたのだ。アントワーヌはこれを回想してこのように述べている。「この日から私はいつも彼女を想い──女性の乳房を求め始めた」。

「髪結いの亭主」
© LAMBART Productions - TF1 Films Production

理想的な女性と出会うアントワーヌ

 この物語で主要と考えられている箇所はアントワーヌが大人、というか中年期になって実際に髪結いの亭主の座に収まって以降の話であり、これまで記してきた少年期のアントワーヌのエピソードは、もっぱら中年期のアントワーヌを導き出すためのものという程度にしか解されていない様子だ。しかしアントワーヌ少年が獲得してしまった嗜好は、その後の彼––––髪結いの亭主になってからと、映画として描かれていないラストシーン以降の部分––––を考えるうえで非常に重要だと思われる。そのあたりに注意を払いつつストーリーを追ってみよう。
 あるとき、街中に理髪店を見つけたアントワーヌは店内にいるマチルド(アンナ・ガリエナ)に興味を示す。早速店内に入り髪の毛を切ってもらおうとしたが「悪いけど予約があって…」との返答。30分後なら大丈夫とマチルドにいわれたアントワーヌは時間が来るまで物陰から店内の様子を覗き見ていたが、予約があるというわりには誰ひとりとして入店はなかった。時間が来てくだんの理髪店を再訪する頃には、マチルドを伴侶としようと決意するアントワーヌ。髪を切られているあいだも妄想が止まらない。そうしてマチルドにこういった。「結婚して下さい」。マチルドはそれについて何も答えず、アントワーヌもしつこく追求したりしないで代金を支払って店をあとにしたのだが、その後彼は店が見えるところに一晩中腰かけて妄想を繰り広げたのだった。
 少年時代に開眼した彼の嗜好はふたつ。ひとつは女性の理容師への愛欲、そしてもうひとつはその彼女たちの乳房へのこだわりだ。これらのフェティッシュ––––そこには快楽だけでなくマゾヒスティックともいえそうな忠誠心や愛情も含まれている––––を満たしてくれる理想の相手を求めて、アントワーヌは生きてきた。おそらくそれまではシェフェール夫人を超える存在に出会えなかったのだろう。そうしてようやく巡りあったのがマチルドだったのだ。それからもうひとつアントワーヌに特徴的なのは、欲しいと強く念じればそれが手に入ると思っていること。これは彼の父の教えによるもので、アントワーヌは妄想という行為を通じてそれを実践しているようだ。こう書いてゆくとアントワーヌはなかなか際どい男なのだが、温厚でどこか飄々とした印象と、欲望や衝動に任せた犯罪的な行動はとらないという人物造形のおかげで、物語は生々しさから距離をとったどこかユーモラスな浮遊感を獲得しているのである。

「髪結いの亭主」
© LAMBART Productions - TF1 Films Production

いつしか広がる不安の影

 さて、アントワーヌがプロポーズをしたものの何の返答も得られなかった3週間後、ふたたび散髪にマチルドの店を訪れた際、彼女の口からは「お気持ちが同じなら承諾します 妻になります」との言葉が。これにてアントワーヌは晴れて髪結いの亭主とあいなったわけだが、そのことを実家に知らせるとアントワーヌの父はショックで心臓マヒを起こし亡くなってしまう。マチルドの店で催されたささやかな結婚パーティーにはアントワーヌの兄夫婦とマチルドの元雇い主だったイジドール氏が参加した。マチルドには家族がいないことがここで明らかになる。どうやらマチルドにとって過去は取るに足らないこと、どうでもいいことのようである。
 ふたりの結婚生活は平穏無事で幸せそうなのだが、マチルドはそんな幸せな状況がいつかなくなってしまうのではという不安を抱えている様子が窺える。家族のない彼女にとって夫婦や家族の幸せがどういったものなのかよくわからないということなのかもしれないが、アントワーヌの愛情を疑う余地はないにせよ、それにずっと応えてゆけるか、彼がいつか離れていってしまうのではないかといった不安がよぎる。おそらくアントワーヌの嗜好を知っているであろうマチルドだからこそ、自分が彼をつなぎとめていられるかわからないのである。物語の中盤以降にたびたび入り込んでくる誰かの子ども、店の天井のひび、常連客が詩を語るなかで口にした「今は魅力でもいつかは消える 魅力を感じなくなったら他のを探すだけ」という言葉──そんなことが積み重なってマチルドのなかの不安の種はいつしか大きく育ってゆく。いつも身なりを気にしている客が自分でも気づかないうちに背筋が曲がっているのを見て「毎日 年をとるんだ」というアントワーヌに、マチルドは「人生って嫌ね」と返した。

「髪結いの亭主」
© LAMBART Productions - TF1 Films Production

余韻を残すラストシーンについて改めて考える

 10年ほど続いたアントワーヌとマチルドの幸せに満ちた生活は、マチルドの自死によって突然終わりを告げられることとなる。この物語を振り返ってみると、髪結いの亭主になってもいいと父からいわれたあとのシェフェール夫人、マチルドと結婚することとなったときの父、そしてマチルドというように、アントワーヌが幸せを感じるたび、誰かが死んでいるのがわかる。シェフェール夫人や父の死はアントワーヌの幸せな気持ちを削ぐようなことはなかっただろうが、今度はどうか。理想的な最愛の人を失ったのだから、悲しみは計り知れないものにちがいない。しかし、泣き叫んだり後悔の念を吐露するアントワーヌの姿は一切描かれておらず、彼はマチルドがいた頃と同じように店でクロスワードパズルをするばかりである。そうすることで仕事をするマチルドの姿を思い出しているのだろう──普通に考えればそうだろうし、劇場公開当時にはわたしも同じように思い、ラストシーンの俯瞰映像に切ない余韻を感じたものだ。しかし、そのときから30年以上を経た今、改めて考えたのは、アントワーヌが立派なフェティシストであるという事実である。果たして彼はマチルドの思い出だけで生きてゆけるのだろうか。記憶のなかだけになってしまったマチルドに「魅力を感じなくなったら他のを探すだけ」とならないとは誰がいいきれようか。アントワーヌの最後のひと言「家内が戻ります」の「家内」とはマチルドの幻影なのか、はたまた現存するほかの誰かなのか──そんなことを考えながら、初めて観たときの素直な感想はもう取り戻せないものだと気づいた。つまりは「毎日 年をとるんだ」であり、「人生って嫌ね」なのである。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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