パサージュ #2 《白鳥の湖》が指し示すもの──『こわれゆく女』

FEATURES 青野賢一
パサージュ #2 《白鳥の湖》が指し示すもの──『こわれゆく女』

目次[非表示]

  1. 徐々に露呈するメイベルの病気
  2. 改めて考えさせられる「普通」
  3. 「子どもっぽい」と「子どものよう」
  4. なぜ《白鳥の湖》なのか
  5. 永遠に堅く結ばれることを願って
 ジョン・カサベテスの『こわれゆく女』(1974)は、アメリカのとある家庭を舞台にした現代劇。とある家庭を構成するのは、土木作業員のニック(ピーター・フォーク)、その妻で専業主婦のメイベル(ジーナ・ローランズ)、そして3人の子どもだ。ニックの仕事は要請があった現場に出向いて作業を行うというもので、10人ほどの同僚──アフリカ系、イタリア系、メキシコ系など出自はさまざまで、多くがニックと同じく中年男性──がいる。一家が暮らすのは、おそらくは郊外であろう、ささやかな庭のある一軒家だ。
 画面のなかでは、メイベルが子どもたちを庭に駐車してある車に乗せようと追いたてている。この日の夜は夫婦水入らずで過ごす約束になっており、子どもらはメイベルの母の運転で実家に向かうのだ。クリーム色の地に植物とペイズリー柄があしらわれたワンピースを着たメイベルの動きは忙しない、というよりも落ち着きがない。ワンピースの着丈の短さも相まって、まるで子どもがもう1人増えたかのようである。
 子どもたちを送り出してニックの帰りを待つが、ニックと同僚は水道管破裂修理の仕事が急遽入り、夜を徹して作業しなくてはならなくなってしまった。「女房と約束したんだ 今夜は2人っきりで楽しもうってね」とニックが同僚の1人にこぼす。「電話しろよ」といわれると「まずいんだよ カッとなると怖い」。結局、メイベルに電話をかけて事情を説明し、帰れないと告げると、メイベルは「気にしなくていいわ」といいながらも明らかに落胆し、悲しそうな表情である。郊外のとある家庭は、このあたりから様子がおかしくなってゆくのだった。

「こわれゆく女」©1974 Faces International Films,Inc.

徐々に露呈するメイベルの病気

 翌朝、仕事仲間をぞろぞろと引き連れて帰宅するニック。メイベルは腹を空かせているみんなに「台所でスパゲティを作ってくるわ」といい、「よし、よし」とでも聞こえてきそうな感じで頷き、キッチンへ。このあとの男たちも一緒になってスパゲティを作るシーンは、本作のなかでもひときわ和気あいあいとした雰囲気である。そして全員で長テーブルを囲んで食事。メイベルは初対面の人に名前を聞いたりしてコミュニケーションを図り、ニックの仲間たちもスパゲティとワインやビールを楽しんで、賑やかな食卓だ。ところが、そんなムードに気持ちが高まったせいで、メイベルの様子がだんだんと妙な方向に傾いてゆく。それを諌めるように「座ってろ!」と怒鳴るニック。一気に冷え冷えとした空気が場を支配し、居心地の悪くなった男たちは帰ってしまうのだった。以後、いくつかのエピソードを経て、メイベルの精神状態は一層不安定なものとなり、ついに入院させられてしまう。
 半年後。メイベルが退院することになり、みんなでメイベルを迎えるべく、ニックは同僚に声をかけた。普段は埃まみれの服を着ているニックたちだったが、めでたい退院日ということで揃ってめかしこんでいるのがほほえましい。こうして男たちとその妻たちを合わせ、かなりの人数がニックの家に集まったが、実は家族だけでメイベルの退院を祝うはずだった。それがニックの独断で大人数になってしまったのだ。結局、みんなは帰ることとなり、ニックとメイベルの両親を含む家族、そしてかかりつけの医師だけとなった──。ここから先、ラスト・シーンまではぜひご自身の目でご覧いただければと思う。

改めて考えさせられる「普通」

 作品全体を通して問いかけられているのは「普通とはなにか」ということだろう。メイベルの姿を見るにつけ、では普通の会話、普通のもてなし、普通の行動とは一体、と考えてしまう。メイベルは折にふれて自分がおかしいかを他者に聞く。それは自分が「おかしい」自覚が多少なりともあるのと、自分に対する他者の評価がなんらか耳に入っていること、その両方からだとは思うのだが、長男はこうした問いに「頭がよくて美人で ママは繊細だ」と答えている。子どもたちにとってメイベルは「世界一のママ」であり、それはどんなことがあろうとも揺るがないのだ。つまり、この評価には「普通」「異常」は無関係なのである。
 本作が制作された1970年代半ばは、大量生産大量消費がすっかり浸透しきった時代。効率化された工場のラインでは、規格に合わないものは不良品として容赦なくはねられる。工場生産においては、不良品か否かという判断基準は明確であるが、人間の「普通」と「異常」の線引きは実に恣意的であり、また流動的で曖昧なもの。そもそも誰かが誰かに「異常」のレッテルを貼ること自体に問題があるようにも思われるが、ともあれ「普通」というマジック・ワードに囚われすぎてしまいがちな現代において、この映画が投げかけてくる問いは大きな意味があるのではないだろうか。ちなみに、ニックをはじめとする土木作業員たちの仕事は、高度に制御された工場のラインのオペレーションや監視とは逆の熟練した人の手がなければ成り立たないもので、作業の対象もまちまちであるのは興味深いところだ。

「こわれゆく女」©1974 Faces International Films,Inc.

「子どもっぽい」と「子どものよう」

 メイベルの陰に隠れてしまって見過ごされがちだが、ニックはニックで問題がある。まず、よくキレて怒鳴っている。この作品が持つ緊張感は、いつ怒鳴りだすかわからないニックが醸し出しているところもあるだろう。それから、対処しなければならない事柄から逃げようとする傾向も見て取れる。約束を果たせなくなったとメイベルに電話しなくてはいけないのを先延ばしにする男である。そんなことから、徹夜仕事明けの朝に同僚を連れて帰宅したのも、メイベルの退院の日に仲間を大勢呼んだのも、自分ひとりで彼女を受け止めることを回避するためだったのかもしれないなどと穿った見方をしてしまう。
 ニックがキレたり逃げたりするのは、メイベルに対する恐れの感情からだ。もちろん彼はメイベルを愛してはいるが、そうした愛情と恐れのバランスが崩れたときに、先のような行動に出てしまう。逆にメイベルはニックを恐れてはおらず、むしろ愛情──ニックだけでなく子どもたちにもたっぷり注がれている──や彼女なりの気遣いが溢れ出た結果、制御不能の状態へと突入してしまうのである。
 このように見てみると、問題から逃げようとするニックの態度は、あたかも子どもが親に怒られそうなことをコソコソ隠したり、告白を先送りにしたりしているようで、実に子どもっぽい。一方のメイベルは、興奮すると感情が爆発してしまうという点では子どものようともいえる。しかし「子どもっぽい」のと「子どものよう」はまるで意味が違う。「子どもっぽい」というのはどちらかといえば否定的な文脈で使われる表現であり、「子どものよう」は肯定、否定とは無関係に用いられるからだ。メイベルが子どものように感じられる点はほかにもある。やけに短かったり、色の組み合わせが独特だったりする彼女の服、あるいはふとした瞬間に見せる無垢な表情──そんなメイベルのことを「世界一のママ」という子どもたちは、同時に「最高の同志」といった風に捉えて全幅の信頼を寄せているのではないだろうか(一方のニックはその子どもっぽさによって、子どもたちとのコミュニケーションがうまくいかない場面もある)。

なぜ《白鳥の湖》なのか

 ところで、作中にバレエ《白鳥の湖》がメイベルによって踊られるシーンがあるのだが、なぜ《白鳥の湖》なのだろうか。踊るシークエンスは一度ならず登場するので、気まぐれにこのバレエを採用したのではなさそうである。《白鳥の湖》は1877年に「ボリショイ劇場」(モスクワ)で初演された、4幕からなるクラシック・バレエの古典。チャイコフスキー作曲、台本をウラジミール・ベギチェフとワシリー・ゲルツァーが手がけ、ヴェンツェル・ライジンガーが振付を担当した作品である。初演からしばらくは芳しい評価を得られなかったが、1895年、マリウス・プティパとレイ・イワーノフの共同振付版が上演され、これが賞賛を受けて名作としての地位が確立された。
 夜、狩りをしようと湖に出向いたジークフリード王子。湖畔できれいな白鳥を見つけて、これを得ようと矢をつがえたとき、その白鳥が美しい娘の姿に変わった。この娘はオデットといい、悪魔ロートバルトの呪いによって白鳥に変えられてしまったのだ。夜のあいだに限っては人間の姿に戻ることができるというが、この呪いを解くには、今まで誰も愛したことのない青年が永遠の愛の誓いをオデットに立てることが必要で、オデットに強く惹かれたジークフリードは彼女に永遠の愛を誓った。ところがその後ジークフリードはロートバルトの策略に引っかかり、オデットと瓜二つのオディールという娘(黒鳥。上演の際はオデットとオディールを同一人物が演じる)をオデットと思い込んで花嫁に指名してしまう。これによりオデットは二度と人間の姿に戻ることができなくなってしまうわけだが、悪魔に騙されたのに気づいたジークフリードは自らの過ちを詫び、オデットは王子を赦したのだった。

「こわれゆく女」©1974 Faces International Films,Inc.

永遠に堅く結ばれることを願って

 実は、オデットが王子を赦したあとの結末はいくつかあって、オデットと王子が永遠の愛を改めて誓って湖に身投げし、その愛の力に悪魔が打ち負かされるバージョンや、王子の懺悔に心打たれたほかの白鳥たち(オデット以外にも呪いをかけられた乙女が多数いる)と王子で力を合わせて悪魔に戦いを挑み、悪魔を負かすといったバージョンも存在する。とはいえ、現世か死後の世界かという違いはあれど、ジークフリードとオデットがその愛によって永遠に結ばれることには変わりはない。ここで映画に戻ると、自分たちは長い時間をかけてぴったり結ばれているのだとメイベルがニックに話す場面は《白鳥の湖》のジークフリードとオデットを彷彿させはしないだろうか。
 メイベルの精神の病を悪魔の呪いと捉えると、メイベルが《白鳥の湖》を踊るのは、呪いたる病気の状態に自らが傾いているサインのようなものといえそうだ。この呪いを解く役割を担うはずのニックはしかし、メイベルを病院に任せてしまう。そして退院後、呪いがどうなったのか、それを受けてニックはどうするか──。メイベルは呪いがかかっていない本当の自分をニックに見つけてもらって、ジークフリードとオデットのように永遠に堅く結ばれることを願っているのではと思う。このように見ていくと、結末がいくつか存在する《白鳥の湖》を採用したのは、観る者による解釈の余地を残した本作のラスト・シーンへの布石にもなっているようだ。

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この記事のライター

青野賢一
青野賢一
1968年東京生まれ。株式会社ビームスにてプレス、クリエイティブディレクターや音楽部門〈BEAMS RECORDS〉のディレクターなどを務め、2021年10月に退社、独立。現在は映画、音楽、ファッション、文学などを横断的に論ずるライターとしてさまざまな媒体に寄稿している。また、DJ、選曲家としても30年を超えるキャリアを持つ。

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