映画の思考徘徊 第10回 フィリップ・ガレル『ジェラシー』再訪〈後編〉── “画面”そのものから

FEATURES 髙橋佑弥
映画の思考徘徊 第10回 フィリップ・ガレル『ジェラシー』再訪〈後編〉── “画面”そのものから

目次[非表示]

  1. 泣く女──第一の場面より
  2. 宙吊りと唐突──その後の展開
 作品を作家の人生と紐づけて語ることは、どこか答えを知りながら問題に取り組んでいるような心地良さがあり、それは時に作品自体を見ることを阻害するノイズとなりうる──そのような思いから、前回=〈前編〉では、まず敢えて少しだけ目を瞑る対象である“自伝性”を確認したが、〈後編〉である本稿では、作品の“背景”をいったん努めて忘れ、画面の推移について言及していくことにしたい。

泣く女──第一の場面より

 座っている女が泣いている──『ジェラシー』を見始める誰しもが最初に目にする画面がこれだ。口角は上がっていて口元はにこやか、最初こそ笑っているだけのように見えるが、やがて目元が光っていることが判るだろう。ただしこの時点では、その涙が嬉しさに依るものなのか、悲しみに依るものなのかすら、まだ提示されてはいない。いつわりの微笑みが次第にくずれおちはじめ、やっと脳裏に疑問が滲み出しはじめる。これは誰だ?……この時点では誰にもわからない。そして、この問いの氷解には、数秒後に位置する後続ショットが立ち現れるのを待たなければならない。
 「やめて」という画面外からの女──感覚的に、先の女によるものだろうと想像されるが、この時点では明示されない──の声と共に編集点が訪れ、画面は寝床で身を横たえ眠る幼い娘の姿を映しだす。次いで、先行するショットから引き継がれた嗚咽が混じる「ルイ、行かないで。一人はイヤ」という声が聞こえ、「仕方ないよ」という男の応答が響いたとき、娘は静かに身を起こす。カットが変わると、娘は気配を潜めて寝室の扉に近づき、隙間から外部の様子を探ろうとしていて、続く娘の視点ショットによって初めて、扉の外で女──本作の最初のショットで泣いていた女──と男が別れ話をしているのだという事態が、ようやく明確になる。娘は寝床に急いで戻り、男は家を出て行き、場面が終わる。
 この間、わずか3分弱──編集によって徹底した情報提示のコントロールがなされているのがわかるだろう。周到な順番で少しずつ状況が明らかにされていく。一瞬前にはわからずにいたことが、次の瞬間に明白になる。そんな感覚が続くのだ。しかし、そのじつ、まだ男女の別離の理由すら明らかにはなっていない。彼らの今後が示唆されることもない。単に、娘が寝室の外部を覗き見て再び寝床に戻るまでの、ほんのひととき、男が家を出て行ったという行動/状況が描かれたに過ぎない。

宙吊りと唐突──その後の展開

 ありとあらゆる映画は、見ているその瞬間瞬間で断固とした確証をもって画面内の事態を把握できるはずもないが、本作においては眼前の状況がとりたてて不明瞭な時間が絶えず持続する──何?誰?何故? たとえば既に述べた冒頭部の場面のすぐ後に、われわれの目に映るのは男と娘が机を囲んでいる姿である。そして、数秒後に女が帰ってくる。さも当然のように。先の場面から連続して居る男は父親だろうと確証なく推量していると、娘が「パパ」と呼ぶことで確信に変わる。脳には新たに問いが浮かぶだろう。復縁したのか、それとも以前の光景なのか──そう逡巡しているあいだに、またしても男は出ていく。どうやら一時的な滞在だったらしいことが判る。
 解体された一方で、部分的に保たれてもいる夫婦/親子関係。完全に断絶したわけでもなく、それでいて元通りではない、中空で漂う、宙吊りとなったどっちつかずな関係性の緊張を孕んだ画面に身を委ねていると、家を出た男が見知らぬ──むろん、観客にとって──女性と肩を並べて歩きながら会話をする、長い横移動撮影に行き着く。唐突なこの第二の女性の登場で、いままで去来していたいくつかの問いに察しがつく。きっと彼女は男の新たな恋人なのだろう、そして本格化した恋人との関係性のために男は家を出たのだろう。
 本作は、“宙吊り”と“唐突”が拮抗することによって駆動する。第二の女が意味ありげな顔で俯きながら、カフェの椅子に腰掛けている……という、すぐ後の場面において、この段階では彼女の状況は定まっておらず、無限の可能性が留保されている。示されていないがゆえに、言うまでもなく、何をしているか予想がつかない。その向かいの席に、遅れて男が腰を下ろした瞬間はじめて“理由”が確定し、われわれに了解される。
 しかし、宙吊りの時間以上に、この場面でとりわけ印象的なのは男が同伴している謎の男の存在だろう。台詞の端々から、彼らが近しい関係性にあること、そしてそれはここに至るまでの描写から予想できる舞台役者業の繋がりなのであろうという予想は容易につくが、結局のところ、この謎の男が改めて “紹介”される機会は訪れない。本作では、不明瞭な宙吊りの時間/出来事に、後から理由/答えがついてくることがしばしばではあるのだが、必ずしも常にではない。唐突な人物の存在が、時に放置される。画面上で、人物たちの間で会話はなされているけれど、その“関係性”が定まらないスリリングさ。どういう間柄? この感覚はわれわれ観客だけのものとは言い切れず、むしろ第二の女に共振したものといえるかもしれない。初めて同席する人々同士の関係性を、その場で様子を伺いながら類推するような、どこか居心地の悪い、休まらない感じ。
 わからないこと──それこそが、足場の定まらない自らの関係性に不安を誘う……本作は、その感覚を作品そのものが体現しているかのようだ。このあとも、絶えず唐突に新たな人物が現れ、特段説明が為されることもなく去っていく。周囲の顔ぶれが目まぐるしく変わりながらも、相変わらず関係性は定まらない。シーンの連なりさえ、ひとつの関係性に注力することができず、男と娘/男と女の間を行ったり来たりする。不確かに浮遊中の関係をすこしでも固定化=安定に近づけるため、男女はそれぞれ相手の圏内に歩み寄り、自らの居場所を第三者を含めたコミュニティのなかで見出そうとする、本作はそんな静かで切実な奮闘の映画と言ってもいいかもしれない。だが、絶えず不安が持続する状況の緊張こそが、唐突な変化を求めてしまい、引き起こされた突発的な行動の集積が、ほんらい守るべきだった関係性を蝕むという映画でもある。
 “ジェラシー”と題された本作は、まだこの時点で“嫉妬”の段階に足に踏み入れてはいない。ここまで長々と考えあぐねながら述べてきた一連の場面は、すべて上映が始まってからわずか8分ほどの地点までに起こるものだ。まだ先は長い──しかし残りは各々で見進めていただければいいだろう。本稿で試みてみたかったのは、作品への“再訪”=再見で新たに気づくことを確認する作業であり、それは充分に遂げられたと思う。初見よりも、むしろ再見時のほうが、すでに認識してしまっているあらゆる情報=ノイズから解放されて作品に身を委ねることができることもあり、その結果として、かつて一度目にしたはずの、それぞれの画面および場面がどのように見えてくるか……ということ。
 2018年に劇場で公開されてからというもの、数年が経ったいまもソフト化や配信の気配がない『つかのまの愛人』(2017)──ガレルがいうところの“三部作”最後の作品──をまた再び見ることができる日が来ることを祈りつつ、今回はこのあたりで筆を置くことにしたい。この素晴らしい作品も、タイトルが示された直後に“泣く女”の姿から始まる。

『ジェラシー』
©2013 Guy Ferrandis / SBS Productions

この記事をシェアする

バックナンバー

この記事のライター

髙橋佑弥
髙橋佑弥
97年生。映画文筆。『別冊映画秘宝 絶対必見!SF映画200』『別冊映画秘宝 決定版ツイン・ピークス究極読本』などに寄稿アリ。共著『「百合映画」完全ガイド』(星海社新書)。「映画の原稿仕事、何でも何時でも何字でも!」が信条だが…五本指を使いこなすことができず左右の人差し指だけでぽちぽちキーボード操作。文字打ちがあまりに遅すぎ、すぐに締切日が来てしまう。

髙橋佑弥の他の記事