エリック・ロメールの「六つの教訓話」と初期作品群に寄せて

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エリック・ロメールの「六つの教訓話」と初期作品群に寄せて

目次[非表示]

  1. 物語を外側から語る声
  2. 計算しつくされた『モード家の一夜』
  3. 『クレールの膝』での実験を経て
  4. ネストール・アルメンドロス
  5. 色彩、そして光と影
  6. 作品の変遷を味わう
 ザ・シネマメンバーズで今回お届けするのは、エリック・ロメールの「六つの教訓話」と、その同時期、あるいはそれ以前のヌーベルヴァーグ前夜に制作された短編や長編第一作、中編、ドキュメンタリーの初期作品群。これらの作品の中でも「六つの教訓話」が、その後の「喜劇と格言劇」や「四季の物語」とは異なるのは、「モノローグ」がはっきりと使われていること―。

 加えて、初期の短編・中編にはロメールの色彩のイメージを決定づけた撮影監督ネストール・アルメンドロスとの最初の作品『パリのナジャ』や、ジャック・リヴェットが撮影を担当した『ベレニス』、ジャン・リュック・ゴダールが出演する『獅子座』、『紹介、またはシャルロットとステーキ』もあるので、お見逃しなく。

エリック・ロメール「六つの教訓話」と初期作品群

出典: YouTube

物語を外側から語る声

 モノローグがナレーションと異なるのは多くの場合、物語の主人公によって語られることだ。この自分語りが入ることによって、スクリーンを観ている我々の意識のピントが物語から遠ざかったり、近づいたりする。「六つの教訓話」は、主人公の男がある女性に心惹かれ、求めはするものの躊躇する。そうして結局は元の女性へと戻っていくという軸が共通してあるのだが、どの作品も語り手はこの一人の男だ。

 主人公の男のモノローグは、「六つの教訓話」において、様々な形で使われる。ドキュメンタリー的な映像に対して日常のスケッチのように語られるケース。思い出語りのようなケース。主人公の心情の説明や内なる声を説明するケースなどだ。

 そこで、モノローグがどこで入るのかを意識することがこのシリーズの楽しみ方のひとつになるのではないか。全体なのか、あるポイントにおいてなのか―。人物の関わりやドラマを描くとき、そこにモノローグは入らない。そして、主人公の視点で心情や説明が語られる時、観ている私たちのピントはそれまでスクリーン上で見えていた物語から遠のいて、情景としてとらえることになる。

 ロメールはこの連作では、注意深くその性質を物語において使っているように思える。例えば、『モード家の一夜』では、2箇所しかモノローグは入らないし、『クレールの膝』に至っては、外側からの声は入らない。のだが、この作品では、物語の内側に入れている。女友達に"試してみたこと"を報告する自分語りとして。

計算しつくされた『モード家の一夜』

『モード家の一夜』©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 礼拝で見かけた女性が通りへ出てくると、カメラはズームアウトし、同じく後から通りへ出てきた主人公の男を映しながら、彼女が道端に止めたスクーターを引き出して乗り、通り過ぎていく。その様をワンカットで映す。その後、男は彼女を見失う。

 後日、仕事が終わって、男は車で夜の街を流す。そこでモノローグが入る。「12月21日、月曜日― 私は直感でフランソワーズが妻になると思った―。」すると、件の女性が乗ったスクーターが右から現れる。クラクションを鳴らすと振り返って微笑んだように見え、スクーターは車の混雑の中へと消えていく。

 物語を観ていた私たちのピントがモノローグによって物語から情景へと一瞬遠ざかり、また物語へと戻らされるということがよくわかる、スリリングな一連だ。そしてロメールはこの作品においては、その後、モノローグは決定的な箇所で、あと一回しか入れないのだ。

 会話の時、女性のみを映し続け、切り返さないカメラ、周到に練られたストーリーと脚本により、交差する人間ドラマが結晶となって浮かび上がる本作で、モノローグが計算されつくした2回しか入らないというのは象徴的といえるだろう。

『クレールの膝』での実験を経て

 主人公の心情の吐露を物語の外側から入れるのではなく、ストーリーとして組み込んだらどうか?そんな試みがなされていると思えてならないのが、『クレールの膝』。今では親友となっている女性から、「小説のヒントを得るために“モルモット”になってほしい」とけしかけられ、それを試み、報告するという設定によって、モノローグは会話としてストーリーに取り込まれる。

『クレールの膝』©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 本作には、ジェロームによるモノローグが入っていたような錯覚をしていたのだが、再見すると、モノローグではなく、ジェロームがオーロラに対して話して聞かせるという形を取っていた。モノローグ的な心情の吐露を昔の恋仲で今は親友という男女の会話に織り込み、その会話によるドラマと小説のための“モルモット”としての試みとが、平行していながらも一体化して物語となり進行していく。外側からの声を使わずに会話によって物語をガイドし、同時に心情も刷り込んでいくという、後のロメールの会話劇としてのスタイルの原型がここにあるのかもしれない。

 こうして映画におけるモノローグと物語の関係を様々な形で取り組んだのち、ロメールはこの「六つの教訓話」以降、モノローグを使わなくなっていく。「喜劇と格言劇」「四季の物語」のそれぞれの作品では、モノローグは入っていないことを思い出してみて欲しい。

 外側から語るのではなく、登場人物の会話の中へとモノローグは取り込まれ、ストーリーとなっていく。初期作品群から「六つの教訓話」までを俯瞰して観てから、キャリア後期の「四季の物語」へともう一度鑑賞をすすめていくと、その円熟がより腑に落ちると思う。

ネストール・アルメンドロス

 キューバの地で映画制作をスタートさせたスペイン出身のこの撮影の名手は、パリで“偶然”、ロメールの作品の撮影をすることになる。撮影監督としての第一作目が、ロメールの初期のドキュメンタリー『パリのナジャ』だ。画面の中に人物を捉えるときの余白のとり方が絶妙で、例えば『獅子座』で映し出されるパリの街も素晴らしいのだが、イタリアのネオレアリズモ的な映り方を強く感じる一方で、アルメンドロスが撮影した『パリのナジャ』を観ると、同じパリの街、人々でも、もっと生っぽい躍動感があるように見えるのが不思議だ。

『パリのナジャ』©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 「六つの教訓話」では、『コレクションする女』、『モード家の一夜』、『クレールの膝』、『愛の昼下がり』と、シリーズ大半の作品の撮影を手掛け、エリック・ロメールの光や色彩のイメージを決定づけたと言っても過言ではない。

色彩、そして光と影

 アルメンドロスの光と影へのこだわりが強烈に表れているシーンがある。『モード家の一夜』で、主人公がモードの自宅で一晩を過ごす際、寝る前に部屋の明かりを一つずつ消していく。3回、ろうそくも含めると計4回、明かりを消すのだが、棚にあるランプを消し、向かい側の棚へと移動し、その上のランプを消し、壁まで移動して部屋の明かりのスイッチをオフにして、最後にテーブルのろうそくを吹き消す。このシーンをワンカットで捉えながら、段階を追って、光と影のトーンが角度を変えながら移り変わっていく、まさに職人技を観ることができる。

『モード家の一夜』©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 そしてカラーの作品になると、特に『コレクションする女』、『クレールの膝』では、朝方と夕方のマジックアワーの光で、全体に金色を帯びた、甘美で気だるい空気まで纏ったような色彩で観る者を陶酔させてくれる。また、暗い部屋の中からバルコニーや窓の外を映すショットが多用され、陰影に富んだ対比が物語の停滞や躊躇をより印象的にしている。

『コレクションする女』©Eric Rohmer/LES FILMS DU LOSANGE

 彼のキャリアはそれだけにとどまらず、『青い珊瑚礁』や『クレイマー、クレイマー』、『ビリー・バスゲイト』など、ハリウッド作品も手掛けている。『クレイマー、クレイマー』と『愛の昼下がり』は、色のトーンと湿度がとても似ているのではないかと思うのだが、どうだろうか。

作品の変遷を味わう

 1951年に撮影され(その後61年にアフレコされた)、今アクセス可能な作品としては最古の撮影となる『紹介、またはシャルロットとステーキ』、女性の歯に惹かれるという相当突飛なアイデアをムルナウ的な恐怖映画として仕立て上げた『ベレニス』など初期作品群から「六つの教訓話」を経て、「四季の物語」までを再度見直すことができるこの機会に是非、映画作家エリック・ロメールの作品の変遷を味わってほしい。

 余談だが、『獅子座』において、主人公が開くパーティに参加している友人役で、若きジャン・リュック・ゴダールが登場する。彼は一人、レコードに聞き入っている。かけている曲は、ベートーヴェン弦楽四重奏15番 イ短調 第2楽章。レコードに執拗に針を置き直し、同じ箇所に聴き入る姿、そして繰り返されるバイオリンの旋律が映画本編のBGMにもなるというシーンは、ゴダールがその後、数々の作品でベートーヴェンの弦楽四重奏を使うこと、その使い方までを予感しているかのようだ。

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